県立図書館についてのヒアリング
黒木 郁朝 氏
※ 現代美術家。木城えほんの郷(宮崎県児湯郡木城町石河内475)のトータルプランナーとして運営に携わる。
ヒアリング日 平成28年4月26日(火)
聞き手 清家(生涯学習課)、河野・福田(県立図書館)
文責 生涯学習課
宮崎の文化・文化施策について
- 私はこの40年、北海道から鹿児島まで(秋田や沖縄など数県を除く)ほとんど全国各県で、継続的に画廊企画の個人展を開いてもらってきた。それに、アメリカやフランスをはじめ、スペイン、ポーランド、フィンランド、あるいはオーストラリアやニュージーランドなど、30カ国以上の国々で個人展を開いてもらってきた。そうした日々の中で、その地に赴く機会も多くなり、全国各地、世界各国の文化事情も感じたり、垣間見たりする機会も多くあった。それぞれの多様な土地土地、各国、各県それぞれに敬慕する美術館長や図書館長、画家や作家たちがいて、その土地に生きる人々の暮らしの中にそれぞれの文化が息づいている、深い文化の基盤を感じさせられたものだ。
そんな経験から感じる宮崎県の文化の基盤は、全国的に見てもうすいエリアのように想えてならない。宮崎県の現状を考えると、心寒々としてくることがあるのも事実だ。国際音楽祭や短歌甲子園、モーツアルト音楽祭など、いくつかの芽吹きを感じることはあっても、まだまだどちらかといえば、イベント消化型の一過性のものに近く、この地の日常の暮らしの中に文化が息づいていく姿は、甚だ薄い気がするのだ。 - 図書館というよりも、もっと宮崎のこの地で、人間の生き方を考える、その土地の思想、哲学を練り上げる場があって、その中で図書館が大切という形になっていくのが良かったのかもしれないけれど、どうも、その根本の思想、哲学がなくて、お役所仕事の文化発信、行政サービスの文化施設、公共事業の箱ものづくりが展開したような気がする。はっきり言って、「仏つくって魂入れず」になっているような気がするのだけれど…。
- 子どもの本の文化以前に、何ものにもかえがたい、子どもの時代にしか触れることのできない文化全体が崩れている。格差社会、ネット社会の進行する中で、文化環境全体を立て直す時期が来ているのではないか。その中で、図書館が一番大切にされるようになることを望みたい。
図書館の人事について
- 公共図書館は文化行政サービスの単なる義務感ではなく、本の文化を愛情を持ってコミニュテイに届ける仕事に人生をかけて取り組む人が、図書館に必要である。公共の責任において、丹念に本の文化を引き継ぎ蓄積していく姿勢。本の文化に愛情を持って人生をかけている人が、ちゃんと仕事のできる時間と場で在り続けることが大切である。
- 図書館の仕事に愛情をもって人生をかけられる人の場、文化行政のシステムをつくらないとダメだと思う。
- 文化行政の義務感でやる仕事はたいしたことではない。おそらく日常のくらしの中に文化が息づいていく作業にはならないだろう。
- 近年の県立図書館の歴代館長をみると、知事部局の一般行政職員が館長になっている。文化に対する考え方を、県の文化行政のシステムを、根本的に問い直す時ではないだろうか。少なくとも館長は、それぞれの文化に愛情をもって生涯かけてやるという人がいなければ。
知事や役人が何を言おうと、畏敬される館長が目指すことを県民が支えるようでなければ。それに、本モノの図書館司書が人生をかけて活躍できる場でなければ…。
文化について えほんの郷について
- どんな文化も暮らしの中で大切にされ、当たり前のように息づいていかないと。ここ(木城えほんの郷)で読み聞かせや原画展など発信し続けることは大切なことだけれど、絵本は子どもだけのものではない人間全体に関わる文化だから。お父さんやお母さんが絵本を暮らしの中で子どもに読み聞かせできる、当たり前のように絵本文化が暮らしに息づくのに百年はかかるのだろう。どんな文化も日常の暮らしに根づいていていくには、丹念な地道な活動が大切なのだ。
- ネットなどヴァーチャルなイメージ体験が氾濫する現代社会の中で、生きている自然、生きている人間の深いイメージ体験が大事だ。体験を通じ獲得した生きた言葉を持たなければ、文学にも本当には触れられない。だからここは、絵本館ではなく「えほんの郷」で、絵本に出会う以前に、生きた自然の中で生き物たち、命に出会う場所として、文化を発信している。宮崎の片隅の自然豊かな山村だからできる、現代に大切な文化を発信している。
- 文化が日常の暮らしに根付き、生き生きする、心も暮らしも生き生きする、それは100年くらい丹念にやって初めて成功することかもしれない。
- ここで子どもたちが自然に浸って、生きた言葉を獲得する、心の中に深く入っていくイメージ体験の時間。ゆったりとしたひとかたまりの時間が必要だ。例えば、読み聞かせの時間。愛情に包まれ、ゆったりとした時間の中で、初めて、知識ではなく、子どもの心の中に入っていくのではなかったか。
- ネットで獲得する浅い知識では、心はやせてくる。「小学4年生まではネットに触れさせないほうがいい」と、子どもの文化に関わる専門家たちが言っているのは、本当のことだ。ネット中毒が子どもの感性や心をやせさせる。
絵本文化について
- 絵本は、子どもにも大人にも最もシンプルな美しい言葉と素晴らしい絵とが心の中で響き合う人間のアート体験の原初のエキスがつまっているのだ。だから、子ども時代の読み聞かせの文化が大切であって、子ども時代に素晴らしい文化体験をすることが大切なのだ。
- 絵本の読み聞かせが暮らしに当たり前に息づいていく、それが本当の文化が根づくことだと思う。
えほんの郷の考え方
- 人工の世界、ネット社会の進行する、ヴァーチャルなイメージの氾濫する現代社会で、五感全部全身で感じる生きたイメージが心の中を豊かにするのには、現代が失った時間、ゆったりした自然の時間の中で、予感と余韻に包まれるひとかたまりの時間の中で、この郷の絵本文化に出会うことは大切なことなのだ。
- ここのスタッフも自分たちももっともっと勉強して深めなければいけないし、百年くらい蓄積したら本物になると考えている。
子どもや大人を取り巻く環境への危機感
- 一番問題なのは文化以前に、暮らしそのものに、自分の生き方を問う時間が無くなっているのを感じる。35年くらい前、ニュージーランドのデブンポートに招待された。自分の「音」という作品(絵)が自然とともに生きることをテーマにしていて、デブンポートの人々の生き方を共有する作家として招待してくれたのだ。オークランドの隣の町で、海の中からマングローブの林が湧き上がってきたような緑豊かな入り江の町で、二百年もたっているような木造の建物が並んでいる美しい環境だった。近所のお母さんたちがいっぱい集まっていた。近所のお母さんたちが子どもたちの未来を真剣に考えていた。「子どもの未来」としきりに言っていた。都市化していくオークランドとの合併も拒み、自然を守っている。
その後数年して、その町の話、『クシュラの奇跡』という本が出た。学生結婚した若い夫婦に誕生した子どもに重度の障害があり、読み聞かせとか、自然の中での遊びとか、近所の人や親せきとかオークランドの医大の先生とか全部が関わって育てていく話だ。美術館とか図書館とかだけで発信していくことではなく、普通の暮らしの中で、どんな風に生きるかずーっと考えている人たちが、絵本がすばらしいよとか、そんな風に文化を息づかせているすごい街だなあと思った。僕には文化がくらしの中に生きている、すごいヒントになる町だった。 - ここに生きていくことで、文化を当たり前のようにふつうに(自然に)楽しむということができんかなと、いつも想っている。